研究員(東北死生学研究所)

爽秋会の東北死生学研究所には研究員[1]がおります。この研究員は患者様やそのご家族、あるいは名取を中心に地元 の方々からお話をうかがいながら、地域の伝統や文化を調査、研究しています。具体的には、地域の年中行事、地元のお寺や神社 に関する事柄、あるいは地域社会のさまざまな集団や人間関係(たとえば契約講、出羽三山講またはマキ(マケ)など)のこと、 時には地域の生活や環境の変化について研究を進めています。

 この種の研究は、民俗学、宗教学、社会学あるいは日本思想史といった人文・社会系の領域に属します。医学や薬学、あるいは 看護学でも社会福祉学でもありません。どちらかといいますと、一見病院には似つかわしくない研究です。ところが爽秋会では 真剣に、地域の伝統や文化についても研究を進めています。何故か?それは爽秋会が緩和医療、在宅医療に力を注いでいるから です。

 現在、緩和医療の領域では「死生観」に関する事柄が問題となっています。緩和医療は、人生の終極に深く関与する医療です。 そのため緩和医療では、他の医療の領域では表面化しにくい問題、すなわち死に直面したときに生じる精神的な苦悩・不安の問題 に正面から取り組むことを求められます。WHOの定義のなかにも、「スピリチュアルな問題」が緩和医療の解決すべき問題として 登場します。この「スピリチュアルな問題」は「心理的な問題」とは別の、独立した問題です。この「スピリチュアル」という 言葉はなかなか訳しにくく、時には「霊的」「霊性的」と訳されることがあります。  ではこの「スピリチュアル=霊的な問題」とは何でしょう。緩和医療との関わりから考えた場合、死を意識した時に生じる不安、 精神的苦痛といってもよいと思われます。このような、死を前にして襲われる不安や心痛は、心身に対する医療や、心へのカウン セリングによって取り除かれる一時的な問題ではなく、人間が生きる限り、必ずついてまわる不可避な問題です。さらに、この 精神的苦痛は、亡くなっていく方を看取る側にも生じます。つまり、近しい人を失うことへの恐れや、見守ることしかできない 無力感、あるいは死によって生じる深い心の痛みなど、さまざまな苦痛におそわれる可能性があります。しかも、いずれ看取った 人自身も、自らの死においてやがて直面せざるをえない問題です。緩和医療はこの難問を避けることができません。

 この人間の死生にまつわる問題は、何も緩和医療の独占ではなく、むしろ人間が洋の東西を問わず、古来より思い悩み、考えて きた問題でもあります。人間の生とは何か?死生とは何か?この問題をめぐって、人間が生きてきた至るところで、さまざまな 思索がめぐらされてきました。この死生の問題は文化のなかでも、とりわけ宗教や哲学の世界で取り組まれてきた問いでした。 そのため緩和医療では、宗教者や哲学者にも積極的に意見を仰ぎながら、いかに現代人の死生と向き合うべきかが議論されてい ます。

 このような宗教者や哲学者による、現代における死生観の模索は今後の緩和医療の領域に対しても、重要なものとなっていくと 考えられます。しかし、死生観に関する問題を検討する時、これに加えてもうひとつの方向性があると考えられます。それは既に 存在し、人に対して死の不安からの解放や、安心を与えてきた、地域文化や伝統のなかにある死生観がいかなるものであるかを 調査・研究するという方向性です。

 死生の問題は、宗教者や哲学者といった専門家だけが直面してきたわけではありません。確かに一方には、宗教者や哲学者の 提示する普遍性のある死生観があり、それは人の心の慰めとなってきました。しかしそれだけでなく、いわば地域のなかにあって 、生活の中で生きられてきた死生観もありました。こちらの死生観は、著名な宗教者や思想家によって創唱されたものではありま せん。むしろ地域に生きる人々の日常の暮らしのなかで、自然とうけつがれてきたものといえます。それは書物としてつづられて いるのではなく、日々の生活や年中行事、その土地の民間信仰のあり方、さらには地域ごとに異なる人生の送り方のなかに現れて きます。ただし、民間信仰や年中行事に現れてくる、生活のなかにある死生観は、宗教者や思想家が提示する死生観からも影響を 多々受けてきました。それ故いうまでもなく、この両者は決して対立的なものではありません。

 従来、宗教者や研究者の間では、宗教の高度な教義や思想にばかり目が向けられ、このような民間信仰の世界や民俗的な知恵は あまり注目されてはきませんでした。しかし、このように地域にあって、生活のなかで生きられてきた死生観が、長いあいだ人に 人生の意味を教え、死に対する不安を慰め、死生にまつわる悩みに安心を与えてきたことは紛れもない事実です。そのため、この 種の死生観に目を向けたとき、私たちの身近には、死生の問題を考える上での貴重な手がかりが見出される可能性があります。つ まり、地域社会の文化・伝統のなかに存在する死生観、人間の死生への対峙の仕方を明らかにし、そこから学ぶという方向性があ るということです。

 よく「日本人は無宗教である」といわれますが、宗教学や民俗学がこれまで明らかにしてきたように、宗教生活のスタイルが 近代の西洋社会のそれと異なるだけであり、実際には日本人はその生活のなかに宗教的な部分を相当持っています。その大部分 が、先ほどから述べてきた、民俗的な信仰というべきものです。正月と盆の人口の大移動を見るとわかるように、若い世代でさ え例外ではありません。このような日本の宗教事情を念頭におくならば、日本においてスピリチュアルな問題について考える際 に、民間信仰に関する領域を無視することは不自然でさえあります。

 ここに一見異質で交わるところのないような緩和医療と、民俗学や宗教学、社会学など人文系の研究との接点が出来上がりま す。そこで爽秋会は、この地域の生活に根ざした死生観がいかなるものかを調査、研究するという方向性でも、死生の問題につ いて考えてみようと試みています。

 このような古人の死生の問題への対応の仕方や、その基礎にある死生観は、文字の形で残ることは多くはありません。そのた め地域社会の生活のあり方や、自然などの環境までも視野に入れながら、地域の文化や伝統の理解を通して、地域の生活に根ざ した死生観に接近することになります。なぜなら、人間の死生の問題は、単に観念の問題にとどまらず、生活の営みと一体をな しているからです。その生活もまた、その土地の風土、歴史や伝統の積み重ねの上に成り立った、個別具体的なものです。そこ で、地域生活のなかにある死生観を研究するためには、地域の生活の在り方から文化全体までも視野に入れた調査が必要となっ てきます。そこで、今後爽秋会では、狭い意味での死生に関する事柄だけでなく、より多面的に地域の文化・伝統を捉えていく 仕方で、地域の死生観について研究をしていく予定です。

 もちろん、この民俗的世界、民間信仰の世界が大きく、しかも急速に変容しつつあることはいうまでもありません。とりわけ 高度経済成長を境目として、地域社会は大きな変貌を遂げ、今もなおその変化は続いています。そのため、地域文化・伝統とそ の死生観に関する研究は、過去にどのような死生観や、それに基づく年中行事、儀礼、生活があったかを記録し、参考資料とし て現代に残すだけでなく、それが今日変化しつつもどのように生活のなかで生きられているかを捉えなければならないと思われ ます。さらに、それらが将来どのようになっていくかをも、展望するものでありたいと考えています。

 そのため、地域社会の生活のあり方、死生観について、文化的・歴史的背景にまでさかのぼりながら多角的に研究し、その成 果を今後の在宅医療、緩和医療におけるQOLを構想するための基礎資料として整理しつつ、それと同時に、歴史的な変化にも視野 を広げた調査を行う予定です。人間の生死の捉え方には、世代ごとの違いも出てきます。そこで患者様のライフヒストリー(人 生のあゆみ)をうかがうなどして、世代ごとの生き方、時代体験が患者様のスピリチュアリティにどのように影響を与えている か、という点も研究したいと考えております。これも今後の当研究所の主要な研究課題でして、そのため患者様へお話をうかが う、ご教示をいただくことに努めております。

 現時点では、爽秋会が在る名取市周辺の農村地帯におけるフィールドワークに重点を置き、宗教社会学、民俗学、農村社会学 の視点を用いながら調査・研究を進めております。

 特に
① 都市近郊の農村地帯が現在どのように変化をしつつあるのか、その変化を住民の方々がどのように認識し、語り、どう対応 しようとしているか?
② 伝統的な地域のなかに、いかなる社会集団が在って、どのように存続し、機能しているか?[2]
③ 伝統的な地域文化の中にある「死生観」とはいかなるものか?東北地方の農村地帯では、人間の死生はどのように語られ、 考えられ、対応されてきたのか?
④ ③と直接関係するが、日本人の死生観のなかで、いわゆる「お迎え」とよばれる現象はいかなるものとして捉えられてき たか?

 以上の四点に留意しながら、患者様とそのご家族、さらには地域住民の方々からお話をうかがいながら、さまざまな論点、 切り口から研究を進めております。 日本語に訳しづらくはありますが、とても重要な、この「スピリチュアル」な問題に対して、地域とそこで暮らす方々から 教えていただき、知ることからアプローチする、これが当研究所の主要な研究課題です。[3]



[1]東北大学文学研究科に所属する若手研究者とも協力し、地域文化・伝統に関する共同研究を進 めています。なお、爽秋会スタッフおよび外部の医療関係者、東北大学などの研究者、さらにはさまざまな参加者の方も交え ながら「タナトロジー(死生学)研究会」が行われています。この研究会の蓄積のうえに当研究所は成立しています。

[2]在宅医療の課題として地域の介護力、家族の介護力に対して注目が集まっています。そのため、地域社会における人間の共同 性のあり方、家族のあり方が医療・福祉の領域でも大変重要な位置を占める論点となっています。在宅医療を軸とする爽秋会に とって、死生観の問題と並んで、地域社会の現状の研究は目下重要な課題となっています。

[3]当研究所では、地域文化や伝統、民間信仰のなかにある、人間の死生に関する事柄を調査研究しております。そのため、 これに関する情報を随時集めております。また、今後の在宅医療、緩和医療の方向性について考え、模索するためにも、患者様 およびご家族からライフヒストリーや死生観に関することがらをうかがうことがございます。その際にはご教示をたまわりたく、 どうかご協力いただきますようよろしく願い申し上げます。